萬屋物語(1) ~ 今となっては「古きよき時代」なのかもしれない。

アルツ進行中、頭の中は消しゴムだらけの僕の薄い記憶(薄いのは記憶だけにとどまらず髪の毛にも及ぶ)をたどると、確か1996年の11月か12月だったと思う。週40時間労働(完全週休二日制)導入に対する県からの助成金が無事支給となり、それを機に当時50万以上もするMacを2台、フォントやアプリケーションに加え、ついでに地方ではいち早くインターネットも利用できるように一式200万強の設備投資をしたのがそもそものはじまりである。
インターネットといっても、国内サイトは数も今と比べるとまばらで、当時は、インターネット=欧米のアダルトサイトが見れるツールというのが定説となっていた。
ほか、今ではすっかり死語となった「ネットサーフィン」という言葉も使われていたのはその頃だ。
メールするにも相手がいない。メルマガ配信しているところもきわめて少ないというかほとんど皆無。
ネットやってることがステータスだった時代である。
今思うと懐かしい「古きよき時代」...かな。それだけ自分が歳をとったってことか。

萬屋物語(2) ~ 「萬屋」始動!

新しいMacが入り、インターネットにも接続できるようになった翌1997年5月。当時いた副社長から日本海ネット(当時の略称は「NSK」、現社名「NSK」)を紹介される。いよいよ「萬屋」のはじまりだ。
当時の株式会社エヌ&ケイは、純然たる地方の広告代理店だった。周りを見てもホームページを開設している同業はまったくおらず、それどころか、インターネットビジネスに関連するソフトハウスすら自社のホームページを持っていないのが現状だった。
そういう中、当社はこの金沢の地でいち早く自社ドメインを持つサイトをネット上に開設したのである。
ただ、開設するに当たり、当時としては非常に高額なNSKに払う制作費を少しでも軽減できないか、また新しい事業として展開できないかとそこは企画会社、いろいろ知恵をしぼりましたがな。ん?なぜ、この部分だけ関西弁に...
いろいろ試行錯誤した結果、当社のホームページを仮想百貨店にして(当社の)取引先にテナントとして入ってもらい、(取引先の)ホームページの制作費ならびにテナント料という名目で家賃収入を得ようということになった。そして、その仮想百貨店こそが「電脳百貨店萬屋」・・・う~~~ぅ、懐かしい!!!の誕生だ。

萬屋物語(3) ~ 「萬屋」始動! だが・・・

発想そのものは間違ってはいないし、いわゆるバーチャル・ショッピング・モールの先駆けで競合相手もこの北陸ではほとんどいないわけだからそれなりの成功をおさめても不思議ではなかったのに、営業活動は苦戦を強いられた。
要するに、この地方では、インターネット・ビジネスが早過ぎたのだ。
個人はもちろんのこと、それ以上に企業内にインターネットが入り込んでいない。オーナー会社がほとんどの地方では、すべての決裁が社長に集中している。そして、その社長がPCを使わない。ましてや、インターネットとなるとちんぷんかんぷんの経営者ばかりで、「インターネットは、まだまだ早い。僕の息子の代にならないと役に立たないですよ」などといったレベルの低さである。情報社会と日頃言いながら、まったくもって時代音痴。それでも彼らが購読する新聞には、当時、毎日のようにインターネットに関連した記事が載っていたのだが、彼らは関心のなさ以上に、読解力がなかった。だから、ますます時代の流れに取り残されていったのだ。
ある程度の規模の会社になるとボトムアップで提案されたり、取引先との関係からもインターネットについては避けて通れないものと承知していたが、地方の中小企業レベルではそこまでの価値が残念ながら予測できなかった。
都市と地方との温度差のそもそもの根源は、このようなトップの時代感覚や価値観の違いによるものなのかもしれない。

萬屋物語(4) ~ 地方初のインターネット情報誌

隔月誌「北陸発!サイバーマガジン 萬屋」新しい事業として取り組みだした萬屋プロジェクトがちちとして成果が上がらない中、3期目に入った当社は、当時の売上の8割強占めていた筆頭株主グループのドラスティックなアクシデントにもろ影響を受け経営危機に陥っていた。
経営者である僕は、膨らむ赤字を何とかしようと資金繰りはもちろんだが、絶対的な収益を確保する策を模索していた。
そこで考えたのが雑誌の発行である。
インターネットはおろかPCも使ってきた年数は長くてもアプリケーションを単に使って来ただけで、PCそのものの知識も関連知識もまったっくなくただの素人だった。僕だけでなく、当社にはグラフィックデザイナーはいたがPCに詳しい社員は一人もいなかった。
なのにその雑誌をローカル初のインターネット情報誌にしようと思ったのは、やれるやれないを超越したせっぱつまった経営状況とこの街で数ある雑誌を押し分け認知させるにはそれくらいの話題性と斬新性、何より時代性がないといけないと思ったからにほかならない。
そして、当社の弱点がさらけ出ないよう専門的な情報はしばらく見送り、ホームページの紹介、そしてこの北陸でインターネットを活用している企業や人を紹介しようと考えた。
また、スタッフの数や力量を考慮し、雑誌というよりタブロイド(小型の新聞)を思いついた。タブロイドならなんとか出せると信じたからである。
しかし、雑誌を発行した経験は僕以外ほかにいない。新刊を出す、しかも、ローカルでは部数では稼げず広告に頼るしかない、どこの馬の骨ともわからない雑誌に広告を入れようとするスポンサーがどこにいるだろうか。ましてや、インターネット情報誌だ。広告を取る営業社員はそれなりの覚悟が必要となる。
日々会議を行いコンセンサスを図りながら、最後の決断は社員にさせた。彼らからは力強い返事で「やりましょう!」と返ってきた。
それが、隔月誌「北陸発!サイバーマガジン 萬屋」の創刊である。

萬屋物語(5) ~ 休刊

32ページもののタブロイドといえど、あの頃のスタッフの力量と資金力からいっても無謀の策だった。
何より一番非力だったのは、社長の僕自身においてほかならない。
そんな一か八かの賭け事がうまくいくはずがない。
案の定、創刊すら危うい状況に追い込まれた。
その背景で、会社の経営状況は転がるように悪くなっていた。

「2号は止めよう」苦渋の決断を僕はしたのだった。

萬屋物語(6) ~ 新たな船出

2月5日発売の2号を持って「北陸発!サイバーマガジン 萬屋」は短い幕を閉じた。
雑誌「萬屋」の休刊は、設立して3期というまだ間もない株式会社エヌ&ケイの終焉をも意味していたが、僕はその定跡をくつがえし、一人新たな船出に出ることを決意する。
それが、ITをビジネスとしてやっていこうと僕に決意させたきっかけだった。
そして、「北陸発!サイバーマガジン 萬屋」は、雑誌という姿形こそなくなったが、それから5年に渡りネットの中で継承されていった。